足尾銅山(あしおどうざん)

 足尾銅山は江戸(えど)時代から400年近く続いた歴史(れきし)ある銅山ですが、三代将軍徳川家光(さんだいしょうぐんとくがわいえみつ)のころに江戸幕府直轄(ちょっかつ)の銅山となり、ほり出された銅は日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)や江戸城建造(けんぞう)に使われたり、長崎からオランダへ輸出(ゆしゅつ)もされました。 のちに閉山(へいざん)におちいりますが、江戸末期に民間人により買収(ばいしゅう)され、新技術の導入(どうにゅう)と豊富(ほうふ)な鉱脈(こうみゃく)の発見により発掘量(はっくつりょう)が日本一になりました。 明治の中期、栃木県足尾銅山の精錬所((せいれんじょ)(1970年に廃鉱(はいこう))から有毒(ゆうがい)な廃液(はいえき)が渡良瀬川(わたらせがわ)にたれ流され、数十年にわたり魚類や農作物、養蚕(ようさん)など下流全域(ぜんいき)に大被害(だいひがい)をあたえました。

 また、大規模な鉱山開発には、精錬用薪炭(しんたん)、蒸気(じょうき)機関車用燃料(ねんりょう)、坑木(こうぼく)およぶ日常生活用等にたくさんの木材が必要なため、森林伐採(ばっさい)が盛んに行われました。 大鉱脈発見から農業に大きな被害が出るまでに、足尾の山林全体の大部分が樹木のない山になってしまいました。 銅の精錬、精錬所の煙突(えんとつ)から排出(はいしゅつ)される煙の中にふくまれる亜硫酸(ありゅうさん)ガスが、風にのって移動(いどう)したり、停滞(ていたい)して周辺の農作物に被害(ひがい)をあたえました。 また、大気中の亜硫酸ガスは酸性雨(さんせいう)となって降(ふ)りそそぎ、山林の土壌(どじょう)を酸性化(さんせいか)させ、木がかれたり、種をまいても芽が出ず山肌が露出して保水能力を失っていきました。 森林の伐採により水源地帯(すいげんちたい)が荒廃(こうはい)し、保水(ほすい)量の低下とともに、大洪水(だいこうずい)の原因(げんいん)にもなりました。