「揮発性有機化合物(VOC)の多成分リアルタイム測定装置を開発」
-プロトン移動反応イオン化−飛行時間型質量分析計-

(環境省記者クラブ・筑波学園都市記者会同時発表)

平成18年2月20日(月)
独立行政法人国立環境研究所
 大気圏環境研究領域
 大気反応研究室主任研究員 谷本浩志
(029-850-2930)

要 旨

 国立環境研究所の谷本浩志主任研究員、猪俣敏主任研究員、青木伸行博士研究員は、北海道大学の廣川淳助教授のグループとの共同研究により、アルデヒド、アルコール、ベンゼン等、大気中に多種多様な形態で存在する揮発性有機化合物(VOC)をリアルタイムで測定できる装置を新たに開発した。 これにより、VOCの排出抑制対策に大きく貢献することが期待される。

 VOCは工場や事業所などで塗料や溶剤として幅広く利用されるものであるが,大気中に放出されたVOCは大気汚染物質である光化学オキシダント(Oxidant, Ox)や浮遊粒子状物質(Suspended Particulate Matter, SPM)の生成に密接に関わり、これらの健康被害を未然に防止するため、その排出状況や動態の詳細な把握が望まれる物質である。 本研究では、これらのVOCを多成分同時にかつリアルタイムで測定できるオンライン質量分析計として、プロトン移動反応イオン化−飛行時間型質量分析法 (PTR-TOFMS) を用いた測定装置を開発した。 この装置は、1分間隔で1 ppbv (10億分の1)の濃度のVOCを20種類以上同時に測定することが可能であり、この原理に基づく装置として世界最高性能を達成した。

 本研究は環境省の「環境技術開発等推進費」における研究課題「新規質量分析法を用いた揮発性・半揮発性有機化合物の実時間測定手法の開発」(研究代表者:谷本浩志)として実施された。 また、研究成果は、学術専門誌「Rapid Communications in Mass Spectrometry (質量分析法速報誌)」 (John Wiley & Sons, Ltd.) オンライン版に2月15日付けで掲載された。

1.背 景

 昨今、日本においては都市近郊における高濃度オキシダント(Ox)現象が再び頻発しているほか、浮遊粒子状物質(SPM)の大気汚染問題も顕著である。 光化学オキシダントの環境基準は国内の多くの地点において未達成であり、SPMについても環境基準の達成率が低い地域が存在している。実際に、平成14年には南関東地域で18年ぶりにオキシダント警報が出された。 Oxは目や鼻などの粘膜への刺激や呼吸器系に影響を及ぼし、SPMは呼吸器系に影響を及ぼすことが知られており、これらの健康被害を未然に防ぐために早急な対処が必要である。 近年、このような都市の大気環境が悪化している状況を受けて、国内におけるVOC排出量の9割を占める固定発生源からの排出を抑制するため、大気汚染防止法が改正され、平成18年4月に従来の自動車からのVOC排出規制に加えて新たに固定発生源からのVOC排出規制が実施される。 さらに、VOC削減による大気環境改善効果や環境基準の達成目標を勘案し、平成22年度を目途に現状の排出量からVOCを約3割削減することが目標とされている。 これは、法規制と事業者の自主的な取り組みとの組み合わせ(ベスト・ミックス)による排出抑制制度のため、今後のVOC排出状況を正確に把握し、それを迅速に対策に反映することが非常に重要となる(注1)。

 しかしながら、都市域において放出されるVOCは数百種類存在するとも言われ、とりわけ多様な不飽和炭化水素(アルケン・ジエン等)、含酸素有機化合物(アルデヒド・アルコール等)、芳香族炭化水素(トルエン・キシレン等)など反応性の高い化合物を含むため測定が非常に困難で、VOC排出状況の正確な把握が難しい状況にある。 VOCの測定は従来、吸着剤や真空容器を用いたサンプルの採取、濃縮後の加熱脱着・溶媒抽出等の前処理技術、ガスクロマトグラフを用いた分析により行われてきたが、これらの手法は濃縮の際に大量の試料ガスを必要とするため、数時間程度の平均濃度でしか定量化できず、測定できる化合物の種類も比較的安定なものに限られていた(注2)。 そこで国立環境研究所では、OxやSPMの生成に関して特に重要な働きをする、不飽和炭化水素・含酸素有機化合物・芳香族炭化水素をターゲットに、多成分のVOCをリアルタイムで測定しうるオンライン質量分析計の開発に取り組んできた。
(注1) VOC排出規制日本国内におけるVOCの年間排出量は、平成12年度において約185万トンと推計されており、そのうち工場や事業所など固定発生源からの排出が約9割、残りの約1割が自動車など移動発生源からの排出である。 自動車排出ガスについては排出規制が強化されてきたが、固定発生源にはこれまで排出規制がなく、平成16年5月の大気汚染防止法が改正されてVOC排出抑制制度が盛り込まれ、排出規制については平成18年4月に施行される予定である。 詳しくは、環境省ホームページを参照されたい(http://www.env.go.jp/air/osen/voc/voc.html)。

(注2) 従来のVOC測定法全炭化水素計(THC)や非メタン炭化水素計(NMHC)などの一括測定法、ガスクロマトグラフ・質量分析計(GC/MS)などの成分分析法などが広く用いられているが、一括測定法は感度、時間応答性に優れているが成分を分離して検出することができず、成分分析法は高感度で成分別に測定できるが時間応答性が悪い欠点がある。

2.測定装置

 本研究では、大気中における揮発性有機化合物の測定手法として、プロトン移動反応イオン化−飛行時間型質量分析計 (Proton Transfer Reaction - Time-of-Flight Mass Spectrometer, PTR-TOFMS) を開発した。 装置の概略図と写真を図1に示す。装置は、(1)水蒸気から試薬イオンを生成するイオン源、(2)プロトン移動反応を起こすドリフトチューブ、(3)ドリフトチューブ−飛行時間型質量分析計のインターフェースであるイオン輸送領域、(4)イオンを検出する飛行時間型質量分析計、の4つのコンポーネントから構成される。 イオン源では、試薬ガスとして導入される水蒸気を直流放電することによってヒドロニウムイオン(H3O+) を得る。 下流のドリフトチューブでは、試料気体が導入され、ヒドロニウムイオンとVOCの化学反応が起こり、VOCにプロトン (H+,陽子とも言う。) が移動する(注3)ことでVOCoH+としてイオン化される。 生成したイオンは、イオン輸送領域を輸送されて飛行時間型質量分析計(注4)にてパルス状の高電圧を印加することで直角に曲げられて高真空内をイオン検出器に導かれる。

図1.国立環境研究所において開発されたプロトン移動反応イオン化−飛行時間型質量分析計 (NIES PTR-TOFMS) の装置概略図と写真

表1は、大気中における主要成分と揮発性有機化合物のプロトン親和力を示したものである。プロトン移動反応は、水蒸気よりもプロトン親和力が大きい化合物に対して起こる化学反応である。 従って、ここでのイオン化は大気中の主要構成成分である窒素、酸素や、長寿命温室効果気体である二酸化炭素、メタン、亜酸化窒素等のいずれに対しても起こらない。一方、低級アルカン以外のオレフィンなど非メタン炭化水素、アルコール、アルデヒド、ケトンといった含酸素有機化合物に対しては選択的に起こる。 また、プロトン移動反応イオン化は化学イオン化(注5)の一種であるため、イオン化に際してフラグメンテーション(ターゲット化合物がばらばらに分解してしまうこと)を起こしにくい。 そのため、「ソフト」イオン化として、化合物の同定に優れている特徴がある。

表1:大気中における主要成分と揮発性有機化合物のプロトン親和力(米国標準技術研究所、Chemistry WebBookによる)。 プロトン親和力は、分子がプロトンと結合するときに放出されるエネルギーと定義され、大きいほどプロトンを受け取りやすいことを表す。
(注3) プロトン移動反応プロトン親和力の差を用いてヒドロニウムイオンからVOCにプロトンを移動させる、次のような反応:VOC + H3O+ ' VOC?H+ + H2O

(注4) 飛行時間型質量分析法イオンが検出器に到達するまでの時間(飛行時間)を測定することにより、イオンの質量電荷比を測定する方法。 原理的に、測定可能な質量数に上限がなく、全質量範囲のイオンを同時に検出することができる特徴がある。

(注5) 化学イオン化 (Chemical Ionization, CI) イオン−分子反応を利用して目的化合物をイオン化するイオン化方法。一般に広く用いられる電子衝撃法 (Electron impact Ionization, EI) と比較して目的化合物がフラグメンテーションを起こしにくく、化合物の同定が容易である。 気象研究ノート第209号「先端質量分析技術による反応性大気化学組成の測定」(近藤豊編、日本気象学会発行)に詳細が掲載されている。

3.結 果

 図2に、プロペン (C3H6)と、新たに規制対象になるアセトアルデヒド (CH3CHO)、アセトン (CH3C(O)CH3)、イソプレン (C5H8)、ベンゼン (C6H6)、トルエン (C6H5(CH3))、パラキシレン (C6H4(CH3)2) の同時検出の様子を示す。 先に述べたプロトン移動反応でのイオン化スキームによって、それぞれの化合物にプロトンが付加したイオンの質量数が検出されていることが明瞭に見てとれる。 本装置の検出下限は、積算時間 1分で10-100 pptvと見積もられ、高感度に多成分を同時検出できるVOC測定装置の製作に成功した。 本研究により、多種多様なVOCを組成別で高感度に高速測定することが可能になったと考えられる。

図2: 代表的な揮発性有機化合物(プロペン、アセトアルデヒド、アセトン、イソプレン、ベンゼン、トルエン、パラキシレン)のマススペクトル(濃度は10 ppbv、積算時間は1分間)。それぞれの分子量+1の質量数にピークとして検出されていることが分かる。
 

4.本研究の意義と今後の展開

 本装置の活用によって、特にOxやSPMの生成に重要な役割を果たす反応性・凝縮性の高いVOCの多成分リアルタイム検出が可能になり、各VOCの種類や性質を考慮したOx生成能やSPM生成能を考慮したVOC対策が大気汚染防止戦略に活用されることが期待される。
 具体的には、都市におけるVOCについて、どの発生源から何の排出をどの程度削減すれば大気質を改善できるか、といった排出抑制に関する対策提案に大きく貢献できるものと考えられる。 また、大気環境分野以外にも、工業・産業分野におけるプロセス管理、医療分野や食料品分野の研究へも応用が期待される。

5.掲載論文

Satoshi Inomata, Hiroshi Tanimoto, Nobuyuki Aoki, Jun Hirokawa, Yasuhiro Sadanaga, A novel discharge source of hydronium ions for proton transfer reaction ionization: design, characterization, and performance, Rapid Communications in Mass Spectrometry, 20(6), 1025-1029, 2006.

6.問い合わせ

●研究担当者
 独立行政法人国立環境研究所
 大気圏環境研究領域 大気反応研究室 主任研究員 谷本浩志
 Tel :029-850-2930 Fax:029-850-2579 E-mail: tanimoto@nies.go.jp

 独立行政法人国立環境研究所
 大気圏環境研究領域 大気反応研究室 主任研究員 猪俣 敏
 Tel :029-850-2403 Fax:029-850-2579 E-mail: ino@nies.go.jp

●企画・広報担当者
 独立行政法人国立環境研究所
 企画・広報室 研究企画官 東岡礼治
 Tel :029-850-2303 Fax:029-851-2854 E-mail: higashioka@nies.go.jp