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アーカイブ集(Meiのひろば:海外報告便)


イタリア国旗イラスト

05. イタリア報告「環境変異原のルネッサンス(第10回国際環境変異原学会)」

青木 康展

 2009年 8月20-25日にイタリア・フィレンツェで開催された、第10回国際環境変異原学会(ICEM, International Conference of Environmental Mutagen)に参加した。ICEMは世界の環境変異原学会の連合体であるInternational Association of Environmental Mutagen Societies が4年に一度開催する学術集会である。今回の登録演題数は800余りであった。これまでの10回のICEMが開催されているが、うち2 回が東京と静岡であったことからも判るように、わが国の研究者の環境変異原研究に対する貢献は大きい。


「会場となった施設」の写真
会場となった施設

 いうまでもなく開催地フィレンツェは、15世紀から16世紀にかけて、中世から近世への橋渡しとなったルネッサンス文化が花開いた古都である。会議場であるPalazzo dei Congressiは古い大邸宅の趣のある施設(写真)であり、近くにはフィレンツェのかつての盟主・メディチ家の礼拝堂をはじめとした文化遺産が集中していた。しかし当地は単なる古都ではなく、1990年代には自動車排ガスなどの大気汚染によるヒトの遺伝子傷害(注1)についての疫学調査が先駆的に実施された街の一つである。また、今回のICEMの大会長であるジェノバ大学のDe Flora博士はオゾン層破壊に伴う紫外線増加による皮膚がん増加のリスク評価に寄与した研究者である。北イタリアは環境因子と人の健康の関係を明らかにする上で転換点となる研究が行われ、今回のICEMのテーマである「環境変異原のルネッサンス」にふさわしい地でもある。


 環境変異原研究とは、元来は放射線・紫外線などの環境因子が遺伝子傷害を引き起こし、次世代に突然変異が発生するメカニズムを明らかにする研究であった。しかし、大気・水・土壌中や食品に含まれる化学物質による遺伝子傷害が発がんの原因となることが明らかになるに至り、環境変異原の研究は環境因子による発がんのメカニズムとリスク評価の研究と同義語に近いものとなった。さらに最近は、遺伝子傷害の防止による発がん予防も環境変異原研究の分野となっている。お茶やブロッコリーの摂取と発がん予防の関係が言われるようになったのも、環境変異原の研究がその源にある。今回のICEMでも、突然変異とエピジェネティックス(注2)、DNA傷害応答、環境因子による突然変異発生、突然変異発生と健康影響、突然変異に関連した疾病の予防、リスク評価の6分野に分かれて研究が発表された。


「開催地フィレンツェの中心地区」の写真
開催地フィレンツェの中心地区
写真中央の塔がメディチ家の礼拝堂

 筆者は「環境因子による突然変異発生」のうち「環境汚染:Sentinel(注3)動物とバイオマーカー(注4)の役割」のセッションで講演した。セッションの主題は、かつて炭鉱でカナリアを用いてガスの発生を未然に検出したように、環境変異原の影響がヒトに現われる前段階で動物を用いて検出する手法を開発することである。演者は5人で、米国パデュー大学のWaters博士は、ペットの犬を用いて家庭環境における化学物質の曝露などによる発がんのリスクを評価する手法の研究。米国海洋大気局のMyers博士は、米国ワシントン州のクレオソート工場周辺の沿岸に棲息するヒラメの肝臓などへの発がん物質(多環芳香族化合物)の蓄積とがんの発生の状況を汚染除去の前後で比較し、汚染除去の効果を確認した調査研究。フランス Metz大学のVasseur博士は、ミミズの消化管細胞の遺伝子傷害により、製鉄所由来の汚染土壌の毒性影響を評価する手法の研究。スペイン・コルドバ大学のPueyo博士は、実験動物のマウスに近い系統の野ネズミをフィールドから採取してトキシコゲノミックス(注5)解析を行い、生態影響を評価する手法の研究。筆者は、薬物代謝酵素の発現を遺伝子工学の手法により抑制した高感受性マウスを用いた有害大気汚染物質の影響の研究をそれぞれ発表した。各国ともに、環境管理が環境中の化学物質濃度を基準に行われているなか、環境中に生息する生物を用いた環境汚染の影響評価手法は優れたものと認識されていることがよく判った。しかし、実際の利用には、非汚染地域の対照値のバラつきがどの程度大きいかを明らかにするなど、信頼性を確保していくことが重要と思われた。


 前回の ICEM(サンフランシスコ)はアメリカ、ヨーロッパとアジアでは日本からの参加者が中心であったが、今回は、アジアや南アメリカの各国からの参加者が増え、その研究の多くは、都市化に伴う自動車交通や重工業の発展により進行した大気や水質汚染による健康影響評価であった。特に、タイ国からは御自身も化学者でもあるチュラポーン王女が全体講演を行い、バンコク市内で実施している遺伝子傷害等を指標にして行った大気汚染の疫学調査を報告した。タイ国では大気中のベンゼンの基準値を世界で最も低い1.7μg/m3(わが国は3μg/m3)としたことが紹介され、大気汚染への積極的な取り組みが伺われた。


「道に駐車された自動車」の写真
道に駐車された自動車

 今回の学会全体を見渡すと、依然発がんの研究が主流であるが、ここ10年のバイオテクノロジーの進歩を活用した変異原物質の次世代影響の研究に新しい流れが生まれていた。例えば、カナダ保健省のYauk 博士は、米大陸・五大湖周辺の都市大気をマウスに曝露した結果、精子DNAに遺伝子傷害が発生したとする研究を報告し注目されていた。その一方、化学物質の発がん性評価にも大きな変化が見られていた。WHO国際がん研究機構のBaan博士は、人とマウスなど実験動物で同じ遺伝子に傷害をあたえるなど発がんメカニズムが同等であることを大きな根拠として、WHOが典型的な環境変異原であるベンゾ[a]ピレンを「人に対して発がん性がある」物質としたことを紹介した。これは近年の分子生物学の進歩の成果であるが、従来、職業曝露などの疫学研究で発がん性が確認された化学物質を「人に対して発がん性がある」としてきたことからの大きな転換である。国際的にも多くの予防的取り組みが進み、化学物質の職業曝露による発がんの事例が減っている。疫学研究に準拠せず動物実験の結果から、どのように化学物質の発がん性のリスク評価を進めていくかは、これからの大きな課題である。一つの「環境変異原のルネッサンス」である。


 フィレンツェの中心地区を歩くと、道幅に比べて自動車が多いように見受けられた。しかし、様々な対策が取られてきた成果のためか、大気汚染の印象は殆どなかった。電気自動車の導入も始まっており、充電プラグが道端に見受けられ、時代の大きな流れを感じた。

注1  遺伝子傷害: 遺伝子の本体であるDNAに傷害を与えること。

注2  エピジェネティックス: DNAのメチル化や核タンパク質ヒストンのアセチル化など遺伝子発現の調節・修飾機構のこと。

注3  sentinel: 歩哨の意。

注4  バイオマーカー: 生体内の生物学的変化を定量的に把握するための指標(マーカー)となるもの。

注5  トキシコゲノミクス: トキシコロジー:toxicology(毒性学)とゲノミクス:genomics(ゲノム科学)を合成した造語。化学物質がヒトや生物に及ぼす毒性を遺伝子や蛋白質レベルで解析し、評価、それを未然に防止することを研究する分野。


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