環境ホルモンによる生物への影響
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世界各地からイボニシなどの巻貝類に、“インポセックス”と呼ばれる、オスの生殖器をもつメスが相次いで報告され、社会的関心も集まりました。いわゆる、環境ホルモン問題として、です。野生生物に環境ホルモンによる悪影響が生じてきたことには、研究者の間では概ね異論はありませんでしたが、人間にも同様の影響があるかどうかについては科学的に不明な点があり、社会的に大きな議論が起きました。これまでのところ、人間への環境ホルモンの影響は科学的には不明な点が多いということが、その影響が全くないかのように語られ、多くの人々の記憶から忘れ去られたように見えます。しかし、本当にそうでしょうか? 人間への環境ホルモンの影響の有無は、科学的にはまだ決着がついていません。だからこそ、細心の注意を払いながら研究を進めるべきだと私は思います。私がそう考える理由の一つは、私たちには知らないことがたくさんあるからです。眼からウロコが落ちる思いをした、その一例をご紹介しましょう。
インポセックスとは?その原因は?
話をインポセックスに戻すと、インポセックスとは、メスの巻貝にオスの生殖器(ペニスと輸精管)ができてくる現象です。奇形の一種ですが、重症の場合には、産卵という、メスとして重要な子孫を残す機能が損なわれ、さらにひどくなると産卵できなくなる場合があります。このため、生息数が減少したとみられる例が複数の巻貝で知られています(■注1)。漁獲対象種でもインポセックスと、それに付随した雌の成熟抑制や産卵数の減少などが生じた結果、生息数が減少して漁業に影響を与えた例もあります(■注2)。巻貝にとっては深刻な話です。このインポセックスを引き起こす原因物質は、船底塗料などとして使用されてきた有機スズ化合物(特にトリブチルスズ(TBT)とトリフェニルスズ(TPT))であることがわかっています。しかも、1 ng/L というごく低濃度、例えて言うなら、50 m プールに目薬一滴程度の有機スズでもインポセックスが起きます(■注3)。 1990年にインポセックスの研究を始めて以降、有機スズ汚染とインポセックスの実態を調べ、有機スズの製造や使用に対する規制を強めて有機スズ汚染とインポセックスの程度を改善させることに労力を注いできました。多くの人の努力のおかげで、ようやく今年(2008年)9月17日に有機スズ全廃条約(AFS Convention 2001)が発効する見通しです(■注4)。
作用メカニズムは?
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一方、インポセックスはどのようなメカニズムで起きるのでしょう?生物学者にとっては学問的興味を引く課題であり、1980年代から研究されてきました。2000年代初めまでに、世界各地の研究者から提起されてきたインポセックスのメカニズムの仮説は大きく4つに分類されます(■注5)。ところが、それらは全て正しくなかった、というのが私たちの現在の考えです。私たちは、これらの仮説を検証するために何度も繰り返し実験を行いましたが、ことごとく失敗しました。「なぜ、うまくいかないのか」と自問するうちに、「もしかすると、自分の実験結果こそが正しいのかもしれない」との想いを抱くようになりました。なぜなら、うまくいかないという点では、実験結果の再現性(同様の実験結果が繰り返し得られること)がきわめて高かったためです。そうして、これら4つの仮説を疑いながら見始めると、いくつもの“疑問”が生じてきました。いくつもの“疑問”の最たるものが、“巻貝の性ホルモンは、人間と同じ(ステロイドホルモン)か?”というものでした。誰に聞いても「そうだろう」と言われ、「あなたはそんなことも知らないの?」という顔で見られたこともありましたが、これこそが曲者だったと、今しみじみ思います。“巻貝の性ホルモンも、人間と同じ(ステロイドホルモン)である”と仮定すると、説明のつかないことがいくつもあることがわかってきたのです(■注6)。これは、おかしい。
RXR関与説:日本発の、全く新しい仮説
では、新しいメカニズムとは?私たちは、これまでの実験データに基づいて、有機スズが引き起こす巻貝類のインポセックスには、レチノイドX受容体(RXR)という核内受容体が深く関与していると考え、2004年に全く新しい仮説として世界に提起しました(■注7)。私たちのRXR関与説は、いくつもの実験データに裏付けられた、信憑性の高いものです。しかし、これでインポセックスのメカニズムに関する全ての謎が解かれたわけではありません。一つの謎が解けると新たな疑問がいくつも出てくる、ということは科学の世界ではよくあることです。私たちは、インポセックスが起きるメカニズムにRXRが深い関わりを持っていることは確かだけれども、本当の“主役”は、実はほかにいるかもしれないと考え、研究を継続しています。
得られた教訓:思い込みは恐ろしい
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“巻貝の性ホルモンも、人間と同じ(ステロイドホルモン)である”との思い込みに縛られ、無意識のうちにその思い込みに支配されて、私たちは自由な発想をできなくなっていました。そして、そのことがRXRの関与という重大な事実の発見を遅らせたと言えるかもしれません。先入観を持たずに虚心坦懐に、と口で言うのは易しいですが、これを実践することがいかに難しいかを思い知らされました。同時に、知らないことの多さも痛感し、謙虚であるべきとの想いを新たにしています。慶応義塾大学医学部の故西本征央教授が言っておられた「『想像』がエンジン、『論理』が地図、ひたむきに打ち込め、うまくいくまであきらめない」を実践しながら、前に進みたいと念じています。
■注1 Bryan, G.W., Gibbs, P.E., Hummerstone, L.G., Burt, G.R.: The decline of the gastropod Nucella lapillus around south-west England: evidence for the effect of tributyltin from antifouling paints. J. Mar. Biol. Assoc. U.K. 66 : 611-640, 1986.
■注2 Horiguchi, T., Kojima, M., Hamada, F., Kajikawa, A., Shiraishi, H., Morita, M., Shimizu, M.: Impact of tributyltin and triphenyltin on ivory shell (Babylonia japonica) populations. Environ. Health Perspectives 114: 13-19, 2006.(<論文概要)
■注3 堀口敏宏: 2・2・1 巻貝のインポセックス発生状況から見た汚染実態の変遷およびアワビ類における有機スズの影響. 有機スズと環境科学-進展する研究の成果-(山田 久編, 恒星社厚生閣, 314p.), pp.112-139, 2007.
■注4 IMO(International Maritime Organaization 国際海事機関)HP:http://www.imo.org/
■注5 環境儀 NO.17「有機スズと生殖異常 海産巻貝に及ぼす内分泌かく乱化学物質の影響」(<国立環境研究所HP)
■注6 堀口敏宏: 3・1・3 巻貝類のインポセックス発症機構. 有機スズと環境科学-進展する研究の成果-(山田 久編, 恒星社厚生閣, 314p.), pp.210-217, 2007.
■注7 Nishikawa, J., Mamiya, S., Kanayama, T., Nishikawa, T., Shiraishi, F., Horiguchi, T.: Involvement of the retinoid X receptor in the development of imposex caused by organotins in gastropods. Environ. Sci & Technol. 38: 6271-6276, 2004.(<論文概要)

































