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脳の性分化に及ぼす発達期のトルエン曝露の影響


塚原 伸治

 最近、環境中の化学物質が子供の健康へ及ぼす影響について関心が高まっています。子供の身体は発達途上にあり、様々な器官が未成熟であることから、化学物質の曝露による影響の質と程度は成人とは異なると考えられます。多くの場合、子供の化学物質に対する感受性は高いとされ、その影響は身体の成熟に達しても残る可能性があると考えられています。特に、脳の発達に対する影響はQOL(quality of life:生活の質)に密接に関連することから、曝露による影響について十分に検討する必要があります。脳は男女共に等しく発達する部分もあれば、男女の間で異なる形質を獲得してゆく部分もあります。例えば、男女間で明らかに異なる生殖機能は、単に生殖腺(卵巣と精巣)が違うからだけでなく、生殖機能をコントロールしている脳の働きが男女で違っているからです。脳の構造や機能に性差が生じる現象を脳の性分化(*1)と言います。性分化した脳が男らしさ・女らしさを生み出していると考えられています。このことから、脳の発達に対する化学物質の曝露影響を的確に検討するためには性別を考慮する必要があります。


 ヒトを含めてほ乳類では、発達期のアンドロゲン(■注1)の作用の有無が脳の性分化にとって重要です。発達期の或る特定の期間に精巣からアンドロゲンが多量に分泌されます。この分泌はアンドロゲンシャワーと呼ばれ、脳を男性(雄性)型にする作用があります。一方、この時期にアンドロゲンが脳に作用しないと、脳は女性(雌性)型になります。つまり、脳の性決定には性染色体の組合せ(XY=♂、XX=♀)だけでなく、発達期のホルモンが重要な役割を果たしているのです。脳の性分化の方向性を決定付けるホルモンが作用する期間は脳の性分化の臨界期と呼ばれ、この時期におけるホルモン作用のかく乱は脳の性分化に影響を及ぼすと考えられます。実際に、内分泌かく乱物質による脳の性分化への影響は動物実験によって報告されています。しかし、性分化への影響は、化学物質の内分泌かく乱作用に原因があるばかりでなく、ホルモンを分泌する内分泌器官に対する影響が原因になることも考えられます。


写真1:胎仔ラットの精巣における3β-HSDの免疫染色組織像
正常の妊娠ラットの雄胎仔(A)の精巣の間質領域には3β-HSD
免疫陽性反応を示す細胞(茶色の細胞)が多数観察されるが、
トルエンを曝露した妊娠ラットの雄胎仔(B)では少ない。(*2)
「胎仔ラットの精巣における3β-HSDの免疫染色組織像」写真

 揮発性有機化合物の一つであるトルエンの曝露は成人男性の血液中のアンドロゲン濃度を低下させるとの報告があります。アンドロゲン分泌に対するトルエンの影響は、成熟した雄ラットを用いた実験により確認されています。そこで、ラットを実験モデルにして、ラットの脳の性分化の臨界期におけるアンドロゲン分泌に対するトルエンの影響を検討しました。妊娠後期(妊娠15日から妊娠19日)にトルエンを0.09,0.9あるいは9 ppm(■注3)の濃度で曝露したラットの雄胎仔の血液中のテストステロン(■注2)濃度を測定してみると、テストステロン濃度は0.9および9 ppmのトルエン曝露によって低下するという結果が得られました(*2)。さらに、雄胎仔ラットの血液中テストステロン濃度が低下してしまう原因を調べるために、精巣でのテストステロン合成に関与するステロイド産生酵素の発現に対するトルエンの影響を検討しました。すると、0.9あるいは9 ppmの濃度のトルエンを曝露した妊娠ラットの雄胎仔の精巣において、3β-HSD(■注4)と呼ばれる酵素の発現が低下しているのが分かりました(写真1)。このことから、トルエン曝露による雄胎仔ラットの血液中のテストステロン濃度の低下は、精巣における3β-HSDの発現の低下に伴うテストステロンの産生と分泌の低下が原因の一つであると考えられました。


写真2:カルビンディンD28Kの免疫染色
により検出した成熟ラットのSDN-POA
(赤い破線で囲まれた領域)
(A)正常な雄ラット(B)周生期にトルエンを曝露した
雄ラット(C)正常な雌ラット(D)周生期にトルエンを
曝露した雌ラット。トルエンを曝露した雄ラットの
SDN-POAは正常雄ラットのSDN-POAよりも小さい。
「カルビンディンD28Kの免疫染色により検出した成熟ラットのSDN-POA」写真

 妊娠後期(胎生後期)はラットの脳の性分化の臨界期に含まれています。したがって、アンドロゲンの産生や分泌に及ぼすトルエンの影響は脳の性分化への影響に繋がる可能性があると思われます。そこで、脳の性分化の臨界期である周生期(■注5)(妊娠17日から生後6日)にトルエンを作業環境中の管理濃度である50 ppmの濃度で曝露したラットの脳への影響を調べました。性分化した脳内には形態学的に性差がみられる領域である性的二型核(■注6)が存在しています。成熟したラットのSDN-POA(■注7)は、体積やニューロンの数が雌よりも雄に優位な性的二型核であることが知られています。カルビンディンD28Kというタンパク質の発現を検出するとSDN- POAを顕微鏡下で観察することができますが、トルエンを周生期に曝露した3〜5ヶ月齢の成熟雄ラットのSDN-POAの体積は正常な雄ラットのSDN- POAより小さくなっていました(写真2)。雌ラットのSDN-POAは雄ラットのSDN-POAよりも小さく、トルエン曝露により変化しませんでした。このことから、周生期に曝露したトルエンは雄ラットの脳の性分化に影響を及ぼし、その影響が成熟期に至るまで持続しているのだと考えられました。臨界期におけるアンドロゲン分泌の低下が、雄の脳の性分化に影響を及ぼしているのだと推測できます。しかしながら、トルエンの影響に関するメカニズムの全貌は不明です。今後、メカニズムの解明のための研究を進めていく必要があると考えています。



■注1  アンドロゲン: 男性(雄性)ホルモンの総称。

■注2  テストステロン: 精巣から産生分泌される代表的なアンドロゲン。

■注3  ppm: parts per million(パーツ・パー・ミリオン)の略号。濃度を表すために用いられる単位であり、100万分のいくらであるかという割合を示す。1 ppmは0.0001%に相当する。

■注4  3β-HSD: 3β−ヒドロキシステロイド脱水素酵素、テストステロン合成に関与するステロイド産生酵素の一つ、コレステロールからテストステロンに至る合成経路において、プレグネノロンからプロゲステロンへの転化を触媒する。

■注5  周生期: 出生を前後する期間、ラットでは出生前後の約5日間が脳の性分化の臨界期であると考えられている。

■注6  性的二型核: 神経核や細胞の体積、ニューロン、シナプス、神経線維等の量的な性差がみられる領域の総称。

■注7  SDN-POA: Sexually dimorphic nucleus of the preoptic areaの略称、ほ乳類の性的二型核として初めて発見された。


【参考資料】

■*1  「脳の性分化」 山内兄人・新井康允(編集)、裳華房、東京、2006年(ISBN 4-7853-5913-7)

■*2  Shinji Tsukahara, Daisuke Nakajima, Yoshiko Kuroda, Rieko Hojo, Shiho Kageyama and Hidekazu Fujimaki. Effects of maternal toluene exposure on testosterone levels in fetal rats, Toxicology Letters (2008), doi:10.1016/j.toxlet.2008.12.001.


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