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ベトナム,泥んこマングローブ調査

【調査研究日誌】

井上 智美

 ベトナム南部,樹齢31年,自分とほぼ同年齢のマングローブ林の中,携帯式GPSに表示された緯度経度を頼りに進行方向を探る。行く手を阻むマングローブ支柱根の数々をまたぐべきか,くぐるべきか,はたまた支柱根の上に乗ってしまった方が次の一歩が出やすいか,容赦なく襲ってくる蚊の大群を振り払いながら,膝近くまでもぐる泥の中を進む。そんな折,視界が急に開けたと思ったら,目前に幅150cmほどの水路が横たわっていた。「水路があります!」と後方の2人に向かって声を張り上げる。「またいで渡れませんか?」と返ってくる。「無理と思います!」と返す。「浅い?いっそ川底を歩けませんか?」と再び返ってくる。思い切って川べりにある支柱根につかまりながら片足を川の中へ突っ込んだ瞬間,腰まで泥水に浸かってしまった。足先はまだ川底を捉えておらず,「無理ですー!」と弱々しく繰り返す。仕方がないので,一度戻って土手に上がり,別の場所から林内を目指すことにする。一時間ほど歩き,あともう少しで土手というところで,先頭のA氏が「あ,蟻の巣」とつぶやくや否や,全身を切りつけられるような痛みが襲ってきた。どうやら攻撃的な葉切り蟻の巣に踏み込んでしまったらしい。あっという間に全身を赤茶色の蟻の集団が覆う。「いたたた!」あまりの痛さと恐怖に,なりふり構っている場合ではない。3人とも,これまでにない素早さで土手に駆け上がり,身に着けている全ての物を投げ出して蟻を振り払う。この日の晩,宿泊所の食堂でぎこちなく動く扇風機に扇がれながら「生きているなあ」としみじみ飲んだ氷入りのサイゴンビールは格別だった。

支柱根の入り組んだ林内
ぐらぐら揺れる一本橋を渡って対岸へ
(もちろん一人ずつ)

 国立環境研究所では2006年度から,メコン河を対象とした環境影響評価研究を推進しており,湿地植物を専門としている私はメコンデルタに広がるマングローブ生態系の調査研究をしています。メコンデルタのマングローブ林は多様な生物を育む生態系で,地域住民に生活の糧をもたらす貴重な森ですが,近年の著しい都市化や産業開発によって,様々な影響を受けています。そこで,私たちのプロジェクトでは環境変化によってもたらされる水質変化がマングローブ生態系へ及ぼす影響を調べるため,マングローブ林の水土壌の理化学性や,微生物活性などを測定しています。冒頭の様子は,マングローブ林の中へ調査候補地を探しに出かけた時の出来事です。毎回のように大変な思いをするわけではありませんが,マングローブという森は,気軽に「ちょっとそこまでサンプルを採りに」出かけられるところでないことは確かです。泥深い林内では長靴は全く用を成さず,はじめの一歩で泥にのまれてしまうため,地下足袋の中へズボンの裾をしっかりと入れて装着します。場合によっては膝上まで沈んでしまうこともあり,歩くというよりは漕ぐといった方が正しいかもしれません。雨季は当然ですが,乾季でも調査中に突然の大雨に見舞われることは多く,調査機器の防水には万全の態勢で臨みます。雨だけならいいのですが,雷が発生したときは,「どうか落ちませんように」とひたすら祈りながら汽水で覆われた森から引き上げます。効果はさておき,蚊よけグッズも無いよりはましです。あちこち刺されては集中できませんし,ベトナムでは蚊を媒介して感染するマラリアやデング熱という病気があります。

森の入り口のお宅で排水を採水

 このように並べ立てると,とても辛い調査のように見えますが,慣れてくると楽しむ余裕も出てきます。そもそも泥んこというものは楽しいもので,幼かった頃に遊んだ記憶とともに無邪気にはしゃいでいる自分に気付かされます。また,林床で忙しく動きまわるカニやトビハゼ,枝から枝へ飛び移るカワセミの鮮やかな青色など,生き物との出会いは何にも代えがたく嬉しい気持ちになります。とはいえ,ベトナム戦争時の枯葉剤散布で絶滅した巨大ワニの剥製を宿泊所のロビーで見たときは,「これには出会いたくない」と心から思いました。

 

(いのうえ ともみ,アジア自然共生研究グループ
流域生態系研究室)

執筆者プロフィール

井上 智美氏

 明るく親切なベトナムの人々に助けられながら研究をしています。同行してくれたベトナムの森林官の方が地下足袋を持っていないのに,裸足で林内まで来てくれたときは脱帽でした。共通の言語がないことも多く,この4年間で物真似力,演技力が増した気がします。