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「環境・脳・記憶」

環境問題基礎知識

掛山 正心

 脳は,神経細胞とその線維,そしてそれをサポートするグリア細胞からなっています。家と家が電話線でつながり,電話機を介して連絡が伝わるように,神経細胞と神経細胞は神経線維でつながり,シナプスという構造を介して情報が伝えられます。脳には1000億から2000億個の神経細胞,つまり家があり,一軒の家には1万個程度の電話(シナプス)があるといわれています。有害化学物質の曝露など,環境が脳に及ぼす影響を調べる際には,すべての家と電話線,電話機のことを一つ一つ調べたいのですが,数があまりにも多すぎて現実的ではありません。しかし一方で,この問題は社会的関心も非常に高く,その解明が待たれています。

 米国ロチェスター大学のB.Weiss教授は,「IQの平均値が100ということは,人口1億人あたり130以上のIQを持つ天才が230万人いる。もし化学物質の影響で平均IQが5ポイント下がったとすると,IQ130以上の人数は半分以下になる」と指摘しています。ここで言うIQや天才というのはたとえ話に過ぎません。どのようなテストをしても,脳機能は個体差が大きいため平均5ポイントの違いというのは顕在化しにくいことをWeiss教授は指摘しています。つまり,有害化学物質の曝露により,気づいたときには取り返しのつかないほどの影響が生じる可能性が懸念されます。そこで,健康影響を未然に察知するための評価系を構築することが重要となります。私たちは,受話器の違いや会話の違い,あるいは国家の違い(神経伝達物質,細胞内シグナルカスケードや脳領域の違い)に着目して,脳に対する影響を総合的に評価するシステムづくりを目指しています。

 脳は,呼吸制御などの個体維持から種の存続にかかわるもの,さらに運動の調節や思考し意志や感情をもつといった高次機能にいたるまで,おおよそ身体の働きにはほとんどかかわっているといってよいでしょう。その脳の働きをごく簡単にまとめると,情報処理と情報の保存の二つがあるといえます。今回は,情報の保存すなわち記憶についてお話します。

 我々は,意識するしないにかかわらず様々なことを記憶・学習しています。たとえば,2002年,サッカーのワールドカップが日本で開催されたことは誰でも知っています。知る時の状況はさまざまですが,共通してそのことを「記憶」しているわけです。記憶する前と後では,脳のなにかが違っているはずです。脳の世界の特徴として,神経細胞は増殖しませんので,新しく記憶をする時にそのための家ができるわけではありません。脳研究全体の成果として,神経細胞の記憶は,神経線維の発芽つまり電話線の増加によるものと,シナプスの生化学的・形態的変化(電話機のリニューアル)によるものだということがわかってきました。神経線維の発芽はその長さにより数時間から数日以上かかりますが,シナプスの変化は一瞬で行うことができます。日常生活を振り返ってみると,私たちは電話番号や人の顔,名前を一瞬で覚えることができますので,記憶のほとんどはシナプスの変化によるものと考えられます。

 シナプスの変化を一瞬で行うためには,NMDA型グルタミン酸受容体という蛋白質が重要であることがわかっていますので,私たちはNMDA受容体を構成するための遺伝子発現量を定量化する方法を考案しました。そして,発達期にダイオキシンを曝露されたラットの脳では,この発現量に影響があらわれることがわかりました。また,ある大気中化学物質の慢性曝露でも同様の変化がみとめられたので,現在詳細な解析を行っています。

 半世紀ほど前になりますが,てんかんの治療のために脳の中の海馬という領域を破壊するという手術が行われたことがあります。手術によりてんかんの症状は改善されましたが,同時に記憶障害があらわれ,この患者さんは新しいことをまったく記憶できなくなってしまいました(順行性健忘症)。お客さんが来たとき,普通に挨拶をして会話することはできます。しかし,そのすぐ後に同じ人にあった時,再び「はじめまして」と挨拶することから,症状が発見されました。この患者さんは同じ本を繰り返し読んでいたという報告もあります。手術前の記憶は保持していたことから,海馬は新規記憶の形成に重要であること,記憶自体は脳の他の場所で保存されていることが示唆されました。動物実験でもこのことは検証され,ラットの海馬破壊でも同様の現象が生じることがわかっています。さらに海馬の中でも,空間記憶に重要な部位や作業記憶に重要な部位があることがわかってきています。

 海馬の隣に扁桃体という領域があります(海馬と扁桃体の場所は,本ニュースの「研究ノート」をご参照ください)。扁桃体は喜怒哀楽(情動)に関わると考えられており,実際に喜怒哀楽の感情が高ぶった人で,扁桃体の神経細胞が活発になっていることが観察されています。一方,我々は視覚や聴覚など五感により外界を知覚するわけですが,知覚系の中でも嗅覚系の情報だけが,扁桃体に直接入力しています。悪臭により気分が悪くなったり,逆に良い香りに落ち着いたりといった経験を皆さんが持っていると思いますが,脳の構造からも,情動は嗅覚系の影響を受けやすくなっていることがわかります。また,扁桃体は記憶の連合性という性質の上で海馬と重要な協力関係にあります。たとえば,とても楽しかったこと,悲しかったことはよく覚えているという経験が誰にでもあると思います。これは,扁桃体から海馬への連絡が記憶の形成を助けているためであると解釈できます。実際に,扁桃体を電気刺激することで海馬の記憶形成(LTP)が促進されることが動物実験で確かめられています。

 化学物質が脳に直接入り込んで脳に蓄積し,影響を及ぼすというだけでなく,化学物質の匂いの情報が影響を及ぼしたり,さらにその記憶の蓄積が新たな毒性を引き起こす可能性も考えられます。化学物質の匂いによる毒性は今後,重要なテーマになるだろうと考えています。

 (かけやま まさき,環境健康研究領域)

執筆者プロフィール

 早稲田大学人間科学部という,当時は新しかった学部の出身。つくばに来て4年。趣味はサッカー観戦。ねこをひざに乗せて読書するのがマイブーム。愛読書の「美味しんぼ」を繰り返し読んでいる自分がちょっぴり不安。