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2007年1月19日

霞ヶ浦はどう利用されているでしょう

環境科学解説「湖や沼の水環境を考える」

 霞ヶ浦はわが国の代表的な湖の1つです。成田空港に進入する飛行機から眺めると、霞ヶ浦は九十九里の長い弧を描く浜とともに、日本を印象づける風景を形づくっています。かつて汽水湖は堰によって淡水化し、水辺の様子と水質は大きく変化しました。

霞ヶ浦はこんなところ

霞ヶ浦の基本データと画像
霞ヶ浦の基本データとランドサット衛星が撮影した霞ヶ浦(西浦)

 霞ヶ浦とは、西浦、北浦、外浪逆浦の3湖沼および常陸川、北利根川、鰐川の3河川の総称です。もっとも大きい西浦だけを指して霞ヶ浦と呼ぶこともあります。湖面総面積220平方キロメートル。茨城県と千葉県にまたがる流域面積は2157平方キロメートルにおよびます。北浦のすぐ東には鹿島灘がひかえ、2 つの湖の水は外浪逆浦で合流して利根川に注ぎ込みます。合流地点から約18km下れば利根川河口に達し、太平洋が広がります。湖の東西と北側は標高20〜 30mの台地が囲み、南側には低く平らな土地が続きます。とくに利根川本流と西浦の間は水郷と呼ばれて、水路の多い独特の景観が広がっています。

歴史のなかの霞ヶ浦

 霞ヶ浦は昔から人々の生活にかかわる身近な湖でした。8世紀はじめに編まれた「常陸風土記」には「流海(ながれうみ)」の名で登場します。この呼び名から想像されるように、古くはいくつかの内海と入江だったことが知られています。ほぼ今日のかたちの湖となったのは江戸時代。この頃、治水工事や農地開拓事業が盛んにおこなわれたことが記録に残っています。ワカサギ漁がはじまったのも江戸初期でした。周辺は河川の氾濫や洪水に見舞われることが多く、治水は霞ヶ浦の大きな課題となってきました。

 昭和に入ると、食糧増産の目的で干拓による耕地が増える一方、魚類や貝類の養殖など水産業の振興がはかられます。

激しく変わった湖と周辺環境

湖畔から望む土浦市街の写真
湖畔から土浦市街を望む

 湖を取り巻く環境が大きく変化したのは戦後のことです。1960年代はじめ、霞ヶ浦を含む利根川水系は水資源開発促進法にもとづく水資源開発水系に指定されました。常陸川には水門が設置され、利根川下流に位置する鹿島地区には港が建設されて鹿島臨海工業地帯が誕生します。農業用水路がひかれ、工業用水の送水も始まりました。周辺では農業や畜産が盛んにおこなわれる一方で、筑波研究学園都市が建設されるなど都市化が進み、都市生活にかかわる水利用が急カーブで増え続けました。さらに、東京の水不足に備えて、霞ヶ浦は首都圏の飲料水安全ネットの役割も負うことになり、水資源の利用が活発化します。こうした発展に伴って生活雑排水、農業や畜産業の排水、工場排水、下水処理水などが霞ヶ浦に流れ込むことになりました。

 70年代になると、シジミや養殖コイの大量死、アオコの大量発生などの異変が起こり、住民の不安をさそうようになりました。73年には塩害対策と飲料水取水の目的で水門の完全閉鎖が決定され、汽水湖(海水を含む湖)だった霞ヶ浦は、これ以降、完全な淡水湖に姿を変えます。汚濁や水質の低下が目立ちだしたのもこの頃でした。水浴場「歩崎」は閉鎖され、自然の浜と水辺は姿を消したのです。

現在の霞ヶ浦

護岸により植生のなくなった写真
護岸によってなくなった湖の植生
霞ヶ浦関連水資源開発計画図
利根川下流/霞ヶ浦関連水資源開発計画

 今日私たちが見る霞ヶ浦は、水量の確保をはかるため周囲に土手を高く築いた堰堤湖岸をもつ姿となっています。かつて水辺に広がっていたヨシやアサザなどの水生植物は減少し、湖畔林も少なくなりました。しかし、それでもなお多くの野鳥や水辺の植物が観察されています。

 1995年には霞ヶ浦開発事業が完了しました。これによって、水害に対する安全性が高まり、生活用水、農業用水、工業用水としての利用価値がいっそう期待されるようになりました。周辺には古い歴史をもつ鹿島神宮や香取神宮、アヤメやハナショウブの美しい水郷、多数のゴルフ場、水族館や郷土資料館、古墳群などがあります。この一帯は水郷筑波国定公園に指定され、釣り、水辺の散策、サイクリング、舟遊びが盛んです。観光やレクリエーションのための環境資源であることも霞ヶ浦の重要な一面であり、今後の大きな可能性と言えるでしょう。